日本における株式取引所は、明治時代に誕生して以来、経済発展や戦争、制度改革など様々な歴史的出来事を経て現在の形に至っています。本稿では、明治・大正・昭和・平成・令和の各時代ごとに、日本の株式取引所の制度や取引所の新設、統合・廃止、重要な出来事の流れについてわかりやすく解説します。主要な大取引所から地方の小規模な取引所まで、存在したすべての株式取引所を可能な限り網羅し、その変遷を追っていきます。
明治時代:株式取引所の誕生と拡大
明治維新後、日本では近代的な金融制度の整備が進められ、株式市場もその一環として生まれました。1878年(明治11年)5月、渋沢栄一らの尽力により東京株式取引所が設立され、6月には大阪で五代友厚らを中心に大阪株式取引所が設立されました。両取引所は明治11年6月から取引を開始し、最初は政府公債の売買が中心でしたが、年末までに第一国立銀行など数社の株式も上場されました。これが日本初の公的な株式取引所であり、東京・大阪の二大都市における株式市場の幕開けとなりました。
東京と大阪の株式取引所開業後、他の都市でも株式取引所を設立しようという動きが生まれました。1878年の「株式取引所条例」により政府は当初東京・大阪各1か所に限定して免許を与えましたが、その後地方にも取引所設立の機運が高まります。たとえば横浜では1877年に「横浜洋銀取引所」として創設された機関が1879年に「横浜取引所」、1880年に「横浜株式取引所」と改称して営業を開始しました。しかし横浜株式取引所は取引低迷のため1889年(明治22年)に任意解散し、一時消滅しています。また名古屋でも1886年(明治19年)に名古屋株式取引所(初代)が設立されましたが、取引不振で1889年に最初の取引所は解散しました。その後1893年に株式会社組織で名古屋株式取引所が再建され、翌1894年から売買立会を開始しています。このように、明治期後半には東京・大阪以外でも株式取引所設立の試みが相次ぎ、東京・大阪の成功を追って名古屋や横浜など主要都市でも株式市場の開設が図られたのです。
明治末期までに、東京・大阪・名古屋以外にもいくつかの地域で株式取引所が姿を現しました。京都や神戸といった商工業の盛んな都市でも取引所設立の動きがあり、実際に京都株式取引所や神戸株式取引所も明治期から大正期にかけて設立されたと考えられます(正確な設立年は資料により異なりますが、明治末から大正初期にかけてでしょう)。また、新潟のように商業が発達した地方都市や、外国貿易港であった長崎などでも株式取引所が設けられたと推測されます。こうした地方取引所は、地元企業や銀行株の取引を目的に設立されたものと考えられますが、当時の株式市場は公債取引が主体で、株式は限られた銘柄のみだったため、地方では取引が活発でないケースも多かったようです。
大正時代:経済成長と株式市場の発展
大正時代(1912~1926年)は、日本経済が第一次世界大戦の特需や戦後復興で活況を呈し、株式市場も拡大した時期でした。明治末期から設立された各地の株式取引所では、銀行や紡績、鉄道など産業界の株式が上場銘柄に加わり、市場の裾野が徐々に広がりました。特に第一次大戦による好景気で多くの企業が利益を上げたため、株式投資への関心が高まり、東京や大阪だけでなく地方の取引所でも売買が活発化したと考えられます。もっとも、当時の取引の大部分は定期取引(先物取引)であり、投機的な売買も行われていました。これは、投資資金や金融制度が未成熟だったため現物株よりも先物での値ざや稼ぎが中心だった事情によります。
大正期には新たな株式取引所の制度整備も進みました。明治以来の株式取引所条例の枠組みは基本的に続いていましたが、関東大震災(1923年)後には東京株式取引所の建物が焼失し、取引停止に追い込まれるなど、市場インフラの課題も露呈しました(東京取引所は1931年に復旧し新しい取引所ビルが完成しています)。また、大戦後の1920年には戦時景気の反動で株価が暴落する恐慌が起こり、株式市場は大きな打撃を受けました。こうした出来事を経て、国は市場の安定を図るため証券業界の監督を強化し始めます。1920年代後半には世界恐慌の波及もあり、日本の株式市場も低迷しましたが、それでも戦前までに東京・大阪・名古屋・京都・神戸・横浜・新潟・長崎・博多(福岡)など主要都市に取引所網が広がったといえます。大正時代は株式市場が本格的に産業資本と結びつき発展した一方、投機的要素も色濃かった時代でした。
昭和時代:戦時統制と戦後復興による再編
戦前・戦中(昭和初期):株式取引所の統合と市場統制
昭和時代に入ると、世界恐慌(1929年)や昭和金融恐慌(1927年)の影響で日本の株式市場も一時低迷しました。しかし1930年代以降、政府は軍需景気を背景に積極財政をとり、株式市場も一部は活性化します。ところが日中戦争が始まり戦時体制が強まると、政府は証券市場に対する統制を一段と強化しました。不要不急産業の株式や社債の発行が抑制され、株価の統制や証券業者への免許制導入などが実施されます。そして遂に1943年(昭和18年)6月、戦時統制の一環として全国の株式取引所を一本化する措置が取られました。1943年6月30日、「日本証券取引所法」に基づき、全国の11か所にあった株式取引所を統合して営団組織の日本証券取引所(日証)を設立し、7月1日から統一市場での取引が始まります。統合時に存在した11取引所は以下の通りです:
- 東京株式取引所(日本証券取引所の本所に位置付け)
- 大阪株式取引所(日本証券取引所の大阪支所)
- 横浜株式取引所(横浜支所。戦前存在したが戦後再開せず)
- 名古屋株式取引所(名古屋支所)
- 京都株式取引所(京都支所)
- 神戸株式取引所(神戸支所)
- 博多株式取引所(博多支所。現在の福岡に相当)
- 広島株式取引所(広島支所)
- 長崎株式取引所(長崎支所)
- 新潟株式取引所(新潟支所)
- 長岡株式取引所(長岡支所)
統合により、これらの取引所はすべて「日本証券取引所」の下で一本化され、形式上は各地の取引所は日証の支所という扱いになりました。しかし太平洋戦争の戦況悪化につれて株式市場は急速に縮小し、取引は低迷します。ついには1945年8月の終戦直前、日証は全市場で取引停止となりました。1945年8月9日を最後に日本の株式市場は一時閉鎖され、終戦を迎えます。その後GHQ(連合国軍総司令部)は戦時中の統制経済からの転換を図る中で、日証の活動再開を認めず、1947年4月に日本証券取引所は正式に解散しました。こうして戦前から続いた既存の取引所組織は一度リセットされることになります。
統合時に支所となった取引所のうち、横浜・長崎・長岡といった都市の取引所は、先述の通り戦後に再開されることはありませんでした。横浜は明治期に取引所が存在しましたが戦前に一度解散しており、戦時統合時に名目上支所に含まれたものの、戦後には独立の証券取引所は設けられていません。また長崎や長岡の取引所についても、地域の市場規模の小ささからか戦後に復活することはありませんでした。これらの都市では、戦後は東京や大阪など他地域の市場で株式取引が行われるようになり、地元取引所は歴史の幕を下ろしています。
戦後復興期(昭和後期):取引所の再発足と高度成長
日本の敗戦後、証券市場はGHQの管理下で再建が模索されました。GHQは日本経済民主化政策の一環として証券取引の再開に慎重でしたが、1948年に米国の証券法にならった新たな証券取引法(証券取引委員会の設置や証券会社と銀行の分離などを含む)が制定され、ようやく市場再開の準備が整います。GHQは再開にあたり「取引の時間優先」「取引所集中原則(取引は取引所経由で行う)」「先物取引の禁止」という証券取引三原則の順守を日本側に求め、これを条件に株式市場の復活を許可しました。先物取引は禁止されたため、戦前盛んだった株式先物は姿を消し、現物株中心の市場として再スタートすることになります。
こうして1949年(昭和24年)春、日本各地で証券取引所が再発足しました。まず東京・大阪・名古屋の3取引所が同年5月16日に営業を再開し、続いて札幌を除く他の地域も7月までに取引所を設立しています。再開時に設立された証券取引所は以下の9か所です:
- 東京証券取引所(1949年5月16日 売買立会再開)
- 大阪証券取引所(1949年5月16日 再開)
- 名古屋証券取引所(1949年5月16日 再開)
- 京都証券取引所(1949年7月4日 再開)
- 神戸証券取引所(1949年7月4日 再開)
- 広島証券取引所(1949年7月4日 再開)
- 福岡証券取引所(1949年7月4日 再開)
- 新潟証券取引所(1949年7月4日 再開)
- 札幌証券取引所(1950年4月1日 新規設立)
このように、戦後は主要都市に加え地方の拠点都市にも取引所が復活し、東京から札幌まで全国9取引所体制が整いました。札幌だけ再開が1950年と少し遅れていますが、これは戦前の札幌には取引所がなく、戦後になって新設されたためです。一方、横浜・長崎・長岡など戦前存在した取引所は再建されず、市場はより大都市圏に集中する形になりました。
取引所再開当初、上場銘柄はGHQの財閥解体政策に伴う持株の放出もあり増加し、人々の間で株式を保有することが広がりました。しかし1949年の再開直後は、先物取引禁止の影響もあって市場は低調で、再開数ヶ月後の8月には早くも相場が山場を迎えた後下落に転じました。そのため、市場の活性化策が急務となり、議論の末に1951年にはアメリカ式の「信用取引制度」(証券会社から資金や株券を借りて売買する制度)が導入されます。この信用取引制度の開始により、投資家は証拠金を積んでレバレッジを効かせた取引が可能となり、株式の流動性が高まりました。また、戦後の高度経済成長と相まって株式市場も急拡大し、日本経済の奇跡的復興を支える存在となっていきます。
昭和30年代(1950年代後半から1960年代)には、証券市場は高度成長に乗って活況を呈しました。東京証券取引所では1961年に大企業向けの市場第一部と中小企業向けの市場第二部を分離新設し、市場区分制度を開始しました。市場第二部の創設により、中堅企業の株式も上場しやすくなりました)。しかし証券業界も発展の裏で試練を経験しています。1964年には証券不況により証券会社が経営危機に陥り、政府の緊急措置で「証券会社救済」が行われました(いわゆる証券不況)。その影響もあり、1965年には証券会社への免許制が導入され、業界の健全化が図られます。また取引の近代化も進み、1965年に東証で株価表示の電光ボードが試験導入され、1974年には売買情報システムが本格稼働して場立ち(場内の手サイン取引)を補完するようになりました。
昭和後期の株式取引所ネットワークにも変化が生じました。1967年(昭和42年)10月、神戸証券取引所が取引量減少のため廃止され、地場の会員7社は大阪証券取引所に移籍しました。神戸取引所の建物はその後取り壊されましたが、一部は「神戸朝日ビル」として外観が保存されています。神戸の閉鎖は、戦後復活した取引所として初の統廃合例であり、市場の東京・大阪集中が進む中で地方取引所の存続が課題となり始めたことを象徴しています。また、この時期には東京市場の規模拡大が著しく、時価総額や売買高で大阪を凌駕するようになりました。1980年代後半には、東京証券取引所はニューヨーク証券取引所に次ぐ世界第2位の株式市場となり、1980年代末のバブル景気時には日本の株式時価総額が世界一になる場面もありました(1990年頃のピーク時)。
平成時代:バブル崩壊と市場再編の加速
1989年(平成元年)に平成時代が始まると間もなく、日本の株式市場は大きな転機を迎えました。1980年代後半のバブル経済で株価は高騰し、日経平均株価は1989年末に史上最高値を記録します。しかし1990年にバブルが崩壊すると株価は急落し、その後日本経済は長期低迷期(いわゆる「失われた10年」「失われた20年」)に入ります。株式市場も低迷が続き、証券会社の経営破綻や投資家離れが進みました。それでも1990年代後半には金融システム改革(日本版金融ビッグバン)が行われ、証券取引の自由化・活性化策がとられます。たとえば1998年には証券取引所外での私設取引システム(PTS)が解禁され、証券会社が取引所を通さず株式売買をマッチングできるようになりました。このような市場改革は投資家の利便性を高める一方、既存取引所には競争圧力となりました。
平成時代には、株式取引所自体の組織改革や統合の動きも顕著になります。戦後長らく各取引所は「会員制法人」(非営利の社団法人)の形態でしたが、グローバル競争に対応するため取引所の株式会社化が進みました。東京証券取引所は2001年(平成13年)に会員制から株式会社に改組し、経営の効率化と利益追求が可能な体制へ移行しています。大阪証券取引所も同様に株式会社化され、その後上場も果たしました(大阪証券取引所は2004年に自らの株式を上場しています)。さらに、IT化の進展に伴い取引の電子化が急速に進行しました。1999年4月には東京証券取引所で株券の場立ちによる売買立会(オークション方式の取引所立会場)が閉鎖され、完全にコンピュータによる注文マッチングに移行しています。これにより、東京の名物だった大勢の立会人がひしめく光景は歴史の一部となり、代わりに「東証アローズ」という情報提供スペースが取引所のシンボルとなりました。
平成時代後半には、地方取引所の再編が相次ぎました。2000年(平成12年)3月、新潟証券取引所と広島証券取引所が東京証券取引所に吸収合併され、両取引所は廃止されました。広島取引所はかねてより取引量低迷に悩んでおり、廃止直前には全国シェアの0.02%程度まで縮小していたため単独存続を断念した経緯があります。同様に新潟取引所も上場企業が極僅かで売買が細っていたことから東証に統合されています。続いて2001年(平成13年)3月、京都証券取引所が大阪証券取引所に吸収合併され、京都での市場は幕を下ろしました。京都取引所では廃止時点で単独上場企業がごく数社しかなく、当時の理事長も「日本の金融市場の中心地を東京に一本化すべき」との持論を持っていたため、自主的に統合の道を選択したとされています。この結果、平成13年以降、日本の証券取引所は東京・大阪・名古屋・札幌・福岡の5か所体制へと集約されました。残る札幌証券取引所と福岡証券取引所も規模は小さいながら独自に市場を維持し、地元企業の上場の受け皿となっています。
また平成時代には、新興企業向けの市場創設や取引所間の競争も活発でした。1990年代末から2000年代初頭にかけ、リスクマネーを呼び込むための新興株市場が相次ぎ誕生します。例えば1999年に東京証券取引所は新興企業向け市場「マザーズ(Mothers)」を開設し、ベンチャー企業の上場を促しました。また大阪証券取引所は米NASDAQと提携してナスダック・ジャパンを2000年に開設(後に「ヘラクレス」市場となり、さらにジャスダックと統合)するなど、各取引所が新市場創出に乗り出しました。最終的に大阪の新興市場はJASDAQ(ジャスダック)として一本化され、東証マザーズと並ぶ二大新興市場となります。もっともこれらは取引所そのものではなく取引所内の市場区分ですが、日本の株式市場の多様化という点で重要な発展でした。
平成の終盤には、日本の取引所業界の再編がクライマックスを迎えます。2013年(平成25年)1月、東京証券取引所と大阪証券取引所が経営統合して「日本取引所グループ(JPX)」が発足しました。これは実質的に東京と大阪の取引所を一本の持株会社傘下に置く統合であり、現物株市場の東証とデリバティブ市場に強みを持つ大証の強みを合わせて国際競争力を高める狙いがありました。この統合により、大阪証券取引所は後に名称を「大阪取引所(OSE)」と改め、主に先物・オプションなどの金融派生商品を扱う専門取引所となっています。一方、東京証券取引所はJPX傘下で現物株の取引を担う中心的市場として位置付けられました。東京と大阪の統合は明治以来続いた複数取引所体制が一本化に向かう歴史的大転換であり、日本の証券市場は事実上「東京マーケット(現物)+大阪マーケット(先物)」の二本柱体制へ移行したのです。
令和時代:新たな時代の市場整備と現在の取引所
2019年に始まった令和時代、世界の経済・金融環境は大きく変化していますが、日本の株式取引所も現代のニーズに合わせた改革を続けています。2020年初には新型コロナウイルス感染症拡大により世界的な株価急落があり、東京市場もサーキットブレーカー発動寸前になるなど波乱がありました。しかし取引所は売買システムを安定稼働させ、市場インフラとして機能し続けました(2020年10月に東証のシステム障害で一日取引停止となるハプニングもありましたが、大きな信用不安には発展しませんでした)。
令和時代の大きな出来事の一つに、**東京証券取引所の市場区分再編(市場再編)**があります。長年続いた東証一部・二部、マザーズ、ジャスダックという市場区分を見直し、2022年(令和4年)4月に「プライム市場・スタンダード市場・グロース市場」の3区分に再編成する改革が実施されました。これにより、上場企業は従来の区分から新基準に沿った市場区分へ移行し、各市場で求められるガバナンスや流通株式比率等の基準が引き上げられました。市場再編の目的は、企業の新陳代謝を促し国際的に魅力ある市場区分を構築することにあり、東証プライム市場には厳しい上場維持基準が課されています。再編初日には東証一部上場企業の多くがプライム市場へ移行しましたが、基準未達の企業も含まれており、経過措置期間内での対応が求められています(この点は今後の課題です)。
現在、日本の証券取引所はJPXグループ傘下の東京証券取引所と大阪取引所、そして独立系の名古屋・札幌・福岡の各取引所という構成です。東京証券取引所は現物株の売買高で国内圧倒的シェアを占め、特にプライム市場には日本を代表する企業が集まっています。大阪取引所は日経平均株価先物取引やTOPIX先物など金融先物取引の世界的大市場として機能し、夜間取引も含めたデリバティブ取引の拠点です。名古屋証券取引所は中部圏の中堅企業向け市場(名証メイン・名証ネクスト)を維持し、地元企業の上場機会を提供しています。札幌証券取引所と福岡証券取引所も規模は小さいながら、独自の新興市場(札証アンビシャス、福証Q-Board)を設けて地域発の成長企業を支援しています。もっとも、これら地方取引所の売買シェアは微小で、実質的に日本の株式売買の大半は東証に集中しているのが実情です。取引所の将来像として、さらなる統合やシステム共通化の可能性も指摘されていますが、一方で地域経済のため地元取引所を残す意義も議論されています。
技術面では、令和の取引所は高速取引やフィンテックへの対応を迫られています。東京証券取引所では2010年に高速売買対応の売買システム「arrowhead(アローヘッド)」を導入し、以降定期的に性能向上を図っています。マーケットの高速化に伴い、高頻度取引(HFT)事業者の参加やコロケーションサービス(取引所にサーバーを置くサービス)提供も行われ、世界標準のインフラ整備が進みました。また上場商品の多様化として、近年はETFやETNなどの上場投資商品、インフラファンド市場の開設、さらには2023年にはカーボン・クレジット市場の試行など、新分野への対応も始まっています。取引時間延長の議論も進んでおり(2024年には東証の後場取引終了を30分延長)、投資家の利便性向上に向けた取り組みが継続中です。
総じて、令和の日本の株式取引所は安定性と国際競争力の両立が課題となっています。東京市場は依然としてアジア有数のマーケットですが、世界的にはニューヨークやロンドン、上海などの市場との競争に晒されています。上場企業数や時価総額では中国市場の台頭もあり、日本市場の存在感低下を指摘する声もあります。そのため、JPXグループは市場改革や新商品の導入、海外投資家誘致に力を入れているところです。地方取引所もそれぞれ特色ある取り組みで生き残りを図っており、例えば札幌・福岡両取引所は相互上場制度やシステム連携を強めることで地域市場の活性化を模索しています(実際、札証・福証の売買システムは東証に接続し注文を取り次ぐ仕組みとなっています)。
以下に、明治以降に存在した主な株式取引所の一覧と、その設立・統廃合の経緯を表形式でまとめます。主要都市の取引所から地方取引所まで網羅し、どの時期に設立され、戦後再開したか、そして現在まで存続しているか(統合された場合は統合先)を整理しています。
| 取引所(所在地) | 初設立(創立年) | 戦後の再開(証券取引所) | 廃止・統合の経緯(現状) |
|---|---|---|---|
| 東京株式取引所(東京) | 1878年 明治11年 | 1949年 東京証券取引所として再設立 | 存続(2013年に大阪証券取引所と経営統合しJPX発足) |
| 大阪株式取引所(大阪) | 1878年 明治11年 | 1949年 大阪証券取引所として再設立 | 存続(2013年東証と統合。現・大阪取引所) |
| 横浜株式取引所(横浜) | 1880年 明治13年(※1877年創始) | (戦後再開せず) | 1889年任意解散(戦時統合のみ、本格再開なし) |
| 名古屋株式取引所(名古屋) | 1886年 明治19年 | 1949年 名古屋証券取引所として再設立 | 存続(名古屋証券取引所) |
| 京都株式取引所(京都) | 1878年~1890年代頃(詳細不明) | 1949年 京都証券取引所として再開 | 2001年廃止(大阪証券取引所に吸収合併) |
| 神戸株式取引所(神戸) | 1878年~1890年代頃(詳細不明) | 1949年 神戸証券取引所として再開 | 1967年廃止(大阪証券取引所に統合) |
| 博多株式取引所(福岡) | 1890年代頃(詳細不明) | 1949年 福岡証券取引所として再開 | 存続(福岡証券取引所) |
| 広島株式取引所(広島) | 1890年代頃(詳細不明) | 1949年 広島証券取引所として再開 | 2000年廃止(東京証券取引所に吸収合併) |
| 長崎株式取引所(長崎) | 明治後期~大正頃(詳細不明) | (戦後再開せず) | 1943年戦時統合後、戦後に復活せず消滅 |
| 新潟株式取引所(新潟) | 明治後期~大正頃(詳細不明) | 1949年 新潟証券取引所として再開 | 2000年廃止(東京証券取引所に吸収合併) |
| 長岡株式取引所(長岡) | 明治後期~大正頃(詳細不明) | (戦後再開せず) | 1943年戦時統合後、戦後に復活せず消滅 |
| 札幌証券取引所(札幌) | 1950年 昭和25年(戦後新設) | 1950年 新規設立(戦前は未設置) | 存続(札幌証券取引所) |
※上記一覧の設立年は主な初回創設時点。戦後再開はGHQの許可に基づき1949年前後に新法人として設立された年を示しています。廃止・統合の欄はその取引所が最終的に消滅した年月および統合先を示し、存続の場合は現在も独立した取引所として存在することを意味します。
なお、新潟県に2つの株式取引所(新潟・長岡)が存在していた背景には、当時の地方都市における経済的自立性や地場産業の発展が影響していたと考えられます。特に明治期の新潟県は、全国一の人口を擁していた時期もあり(明治22年時点で約133万人)、県内で複数の経済中心都市が成立し得るだけの社会的・経済的基盤がありました。長岡は越後地方の商業中心地として金融機関や問屋街が発展しており、地域資本の集約拠点として独自に取引所を設けたと推測されます。しかし戦後には再開されず、取引所としての役割は新潟市側に集約されていくこととなりました。
このように、明治から令和にかけて日本の株式取引所は誕生・発展・統合・再編という長い歴史を辿ってきました。当初は東京・大阪に始まった市場も、一時は全国各地に広がり、戦時下で統合された後、戦後に再び複数の市場として甦りました。しかし経済の集中化や市場環境の変化により徐々に集約が進み、現在では主要な取引は東京(および大阪のデリバティブ市場)に集中しています。それでも各地域の取引所が果たしてきた役割は大きく、地場産業の資金調達や地域経済の発展に寄与してきました。今後の日本の株式取引所は、国内外の環境変化に対応しつつ、投資家にとって魅力ある市場づくりを続けていくことが求められるでしょう。歴史を振り返ると、その時々の課題に対して取引所は制度改革や統廃合によって応じてきたことが分かります。これからも日本の証券取引所は、約150年におよぶ歴史の上に築かれた信用と経験を土台に、新たな時代の市場を切り開いていくと期待されます。
